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誹謗中傷はなぜなくならないのか?批判と誹謗中傷について改めて考えてみる

2024/02/05
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2023年も終わりが近づいているこの年の瀬に、以前からずっとずっと書こうと思って手が付かずにいたテーマについて思い切って着手しようと思います

今回のテーマは「批判と誹謗中傷について」として、筆者の独断と偏見と経験則に基づいてお話していきます

先に書いておきますが、今回のお話の内容は多くの人にとって割とガチ目に不快な内容になってしまうと思われます

しかし、どうしても一度は形にしてしておきたかったテーマなのでどうかお許しください。今回のテーマについては動画にする予定もありません

不快な気持ちになりたくない方は今のうちにブラウザバックすることをおすすめします

批判と誹謗中傷について

批判、及び誹謗中傷とは?

筆者自身の考えを書いていく前に、まずはそれぞれの意味について今一度おさらいをしてみましょう

外部リンク(ウィキペディア -フリー百科事典-)
>>批評
 
>>誹謗中傷

以下ウィキペディア【批評】のページより抜粋

批評(ひひょう、英語・フランス語:critique)とは、ある事物の是非・善悪・美醜などを指摘して、その価値を判断し、論じることをいう[1]。批判(ひはん)、評論ともいう。批評賞、批判賞はないが、評論賞というものはある。出版社的には評論が一般の呼び名である。

以下ウィキペディア【誹謗中傷】のページより抜粋

誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)は、人や企業の社会的評価を低下させるような根拠のない悪口やデマを言いふらす、又はそれらをインターネット上に投稿したり[1][2][3][4][5][6]、人格攻撃する行為である[4][6][5][7][8][1]。
物事を判定・評価する批判意見と、根拠のない悪口や人格攻撃(人格否定)である誹謗中傷は違うため[9][1]、親告された場合、民事的には「慰謝料の請求」、刑事的には「信用棄損罪・業務妨害罪」「名誉毀損」や「侮辱罪」に問われる可能性がある[1][10][11][12]。

こちら誹謗中傷についてもう一つリンクを貼っておきます

外部リンク(警察庁ホームページ)
>>インターネット上の誹謗中傷等への対応

批判と誹謗中傷の違い

批判と誹謗中傷の一番の違いは「攻撃性を含むかどうか」と言ったところではないでしょうか

批評や批判というものはあって然るべきものですが、そこに根拠がなかった場合はただの誹謗中傷。つまりただの他者への攻撃となります

では、批判と誹謗中傷が織り交ぜられてしまっている場合はどうでしょうか

確かに批判は受け入れねばならないものですが、誹謗中傷までは受け入れるべきものではありません
なのでそこは切り分けて考えるものとなると思います

批判と誹謗中傷が混ざってしまっている時は主に以下のようなパターンが多いのではないでしょうか

  1. 批判的な意見を述べる時に怒りや失望の感情が行き過ぎてしまい、意図せず誹謗中傷的な表現が含まれてしまう場合
  2. 誹謗中傷することが目的だが根拠がなくては聞き入れてもらえないため、批判を乗せて表現する場合

批判が主な目的なのか、それとも誹謗中傷が主な目的かと言ったところではないかと思われます

批判をする時は誹謗中傷的な表現にならないようにした方が良い

繰り返すようですが、批判はあって然るべきものです

例えばこういったどこぞの馬の骨ともわからない人が書いたブログ記事1つ取ってもそうですが、考え方や立場の違い、知識、理解不足などで至らないことがあるのは当たり前のことです

そういう至らないコンテンツを目にして、それは違うと思ったのであれば物事を良くしようとするために良き意見を言うことはむしろ歓迎されることだと思います

だからこそ、批判をする時は誹謗中傷的な表現にならないように気をつける必要があると思います

なぜなら誹謗中傷的表現、つまり「攻撃性」を持たせてしまった時点で、肝心の批判の意味が薄れてしまうからです

攻撃性を持った発言だなと認識した時点で、それはもう「話半分に聴く」対象となってしまいます

そして、批判部分と誹謗中傷部分を切り分けて上手に批判部分のみを飲み込める人は決して多くはないと思われます

ましてや公の場に残る発言であれば尚更のことです

少なくとも筆者のブログやYouTubeチャンネルではですが、誹謗中傷的なコメントをいただいてしまった時は申し訳ありませんが削除及びブロックでの対応を取らせていただいています(今までで数件程度ではあります)

そのコメントを目にした読者の方や視聴者の方が不快な気持ちになる恐れもあると考えるからです

言葉は発するのは簡単ですが、意図を正確に伝えるのは難しいものです

良き方向にと願って発する言葉であれば、きちんと聞き入れてもらうためにも慎重に言葉を選ぶようにするのが良いのではないかと思います

誹謗中傷はなぜなくならない?

ここまでは批判についてを主に話してきましたが、今度は誹謗中傷についてお話していきます

誹謗中傷は良くない!なんてのは、こんなところでわざわざ筆者ごときが書かずとももう誰でもわかっていることではありますよね

散々ニュースやツイッターなどでもしばしば問題になっていたりしますし、警察沙汰や裁判沙汰になることもあることだと言うのももはや常識といって良いレベルだと思います

それでもネット上の色んなところで目にしてしまうのは一体なぜなのか?

自覚のない誹謗中傷ももちろんあると思います。しかし、問題はそこではありません

誹謗中傷というのは言ってしまえば一種の娯楽だからです

リアルにおけるパワハラ、モラハラなどの各種ハラスメント行為やいじめやクレーマーなどと同じことです

他者を攻撃することで満足感を得る人間がいる限り決してなくなることはありませんし、そういった人間が己の行いを省みるということも有り得ません

正当な批判をしているように見える中にも「お、こう言って叩けばいいんだな!」といった具合に、批判的意見に混ざってそれっぽいことを言って他者を攻撃する人が残念ながら存在します

そしてそれは過去未来形を変えていくだけのものだと思われます

例えばこれからネットでの書き込みの規制が厳しくなるなどして行ったとしても、やり方が変わっていくだけで今後もおそらく完全になくなることはないだろうと思われます

誹謗中傷が溢れると正当な批判までもが響かなくなる

そして誹謗中傷的な言葉が溢れてしまうと、肝心の正当な批判までもが届きにくくなってしまいます

誹謗中傷目的で言葉を発する人も根拠がなくてはただの中傷になってしまいますから、根拠、つまり批判を織り交ぜています

そんな大量の誹謗中傷と批判の中から批判部分のみをすくい上げようとすると、大変無駄が多くなってしまうのです

そしてもちろん攻撃性のある意見であろうと、切り分けをするためには一度は目を通す必要があります

それを平気で耐えられる人はそう多くはないはずです

誹謗中傷的な表現が溢れることは、本当に良き意見を言って批判をしたい人にとってもデメリットとなってしまうと筆者は考えています

だからこそ、しつこいようではありますが本当に何かを変えようと思って批判的なことを言葉にする時は「攻撃性」を持たせないことを意識して欲しいなと願っています

最後に

今回は批判と誹謗中傷についてのお話を筆者の独断と偏見強めでお届けしました

言葉というのは本当に難しいもので、善意や好意というものはびっくりするほど届きにくいのに、悪意をお届けするのはとても簡単なのですよね

よくそういったネットでの攻撃的発言を受けた人に対して「煽り耐性が足りない」「スルースキルが足りない」などと言う人がいます

確かにそれは決して間違いではありません

しかしそれはあくまで当人にその時出来る対処方法であり、誹謗中傷行為に対する正しいアプローチであるとは到底思えません

自分の何が悪かったか、批判されたことがあるとすれば必要な部分を落とし込んで反省するのは大事なことです

ですがあとは我慢して泣き寝入りするだけってそれはおかしいと思いませんか?

リアルもネットも同じことですが、心の傷というものは一度深めについたら基本元に戻ることはありません

最後にもう一度ネットの誹謗中傷の対応についてのリンクを貼って終わりとしたいと思います。
ここまで読んでいただいた方ありがとうございました

外部リンク(警察庁ホームページ)
>>インターネット上の誹謗中傷等への対応

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